毒親への葛藤を綴るブログ(精神的、性的、肉体的虐待)

親から性的虐待○心身的虐待を受けてきた女性のブログ

死ぬまで永遠に毒親と付き合うのか

現在も毒親との関係は続いている。

母の別れた元夫と私の顔が似ていることで、ストレスが溜まって虐待を行なっていた母と、再婚相手の性的虐待の父、そして父の連れ子との関係からは離れられない。

 

母と連れ子との連絡手段は、LINE。

母とのラインのやりとりは凄く気を遣う。

距離感ある敬語でのやり取りも数年続いていたが、2、3年ぐらい経ち、母が悲しがった。

子供も早く産んでほしいと言った。

 

年老いて行く父はもう、孫には性的虐待はする、しない関係なしに、触らせたくもないし、存在すらを知られなくない。

その連れ子にも触らせたくない。

権力がある母が生きてるから連れ子は私にいい子のふりをしているが、母が生きているからであって、永遠ではない。

母は、私の為に夫とは別れられないらしい。

 

私の為に、、、って。

 

それだけで十分に、精神的虐待が続いているんだよ。

悪気はないんだろうけど。

 

凄く悲しい人なんだな。

 

コロナで私に逢えないからと、ラインに桜や薔薇を見に行きましたと、写真を送ってくる。

来年は一緒に行きたいと。

誰だって親とは仲良くしたいし、嬉しく思いたいけど、この現状でのその内容は辛さしかない。

 

悪気のない虐待の現状は変わらないけど、万が一この先変わったとしても、もう既に遅い。

死ぬまで永遠に付き合って行かなくてならないことに覚悟はできない。

 

ポイズン。

 

 

 

 

 

 

 

心の整理の為、久しぶりにブログを書いてみる気になった。

最近の母との関係は、母の日、父の日、私の誕生日、両親の誕生日にプレゼントを贈り贈られ、それをラインでお礼の連絡と取り合うぐらいです。

 

で、こないだの母の日に、贈り物恒例の物をを贈り、ラインでお礼のやりとりをした翌日、腹違いの父違いの妹とお野菜のタネを相談しながら買ってきたので、無事に育ったら私に贈りたいということで連絡が来ました。

わたしは予感していました。

出来るだけ必要最低限以外は連絡を取らないようにするのは大事ですが、その他に、打つ文章も近づき過ぎず遠すぎずの敬語で返信をいつもしていました。

母的にはずっとその返信の仕方が嫌だったようで、普通にお話ししたいと言われました。

 

なので、私の気持ちをラインで返しました。

ここ数年のラインのやりとりで、母は私に優しいことばだけをかけてくれる内容でしたが、やっぱり30歳過ぎまで度々行われてきた、人のせいばかりにしてきた都合主義罵倒や、実家で暮らしてきた暴力暴言性的虐待などがフラッシュバックすることがあると伝えました。

 

そしたら母の意見は、私のことを「罵倒ばかりして歪んだ性格」

と私のことを判断したみたいです。

そして「過去のことばかり気にしているけど、私が(母)面倒みた素敵な思い出は全て忘れて、嫌なことばかり覚えてるのね、貴方は(私)」

 

私は思いました、母さん、心的外傷後ストレス障害からのアスペルガーを何十年も前から発症していて、最近は歳のせいもあり、行ってきた犯罪を美化してきているんだなと。

母がいう面倒みた素敵な思い出というのが、私が小学二年生の時に肺炎と喘息で入院していたのですが、その時にずっと世話をして看病していたということです。

その記憶を私が忘れたものだと思っているのです。

 

その記憶ははっきりと覚えています。

むしろ私のその思い出のメインは別のとこにあります。

退院してしばらくしたら、喫煙家の母は私の目の前でタバコをよく吸っていました。

私はタバコの煙が得意ではなく、ぜんそくが怖いからタバコやめて欲しいと伝えたことがありました。

そうしたら、「あんたがいるからイライラしてタバコ辞められないんのわかってんのか!?」と大声で罵倒始めました。

肉体的暴力が怖くて、ごめんなさいと泣いて許してもらいました。

 

母の私に対するそういう甘さは大人になっても続いていました。

なので私も心的外傷ストレス障害になり、結婚をして自分の家ができて、距離を置きたい気持ちになり、ラインも遠からず近からずの関係を保つ文章を打ってましたが、

母にはほぼ理解がないようです。

ここ数年間、母は子供に罵倒される親ほど惨めなものはないと、見るも無残な姿になってしまったとラインで言われました。

 

私に対して、

「過去ばかり歪んだ記憶を残さないで、前向きに生きて欲しい」

「貴方のこと、産まなきゃ良かったなんて一度も思ったこともない」

と、母の今の願いだそうです。

 

散々、叩きながら蹴り飛ばしながら、実の父に顔が似ているからムカつく!あんたなんかいなければいい!あんたのせで!とか、産まなければ良かった!とか平気で言ってきた母が母の日の直後に過去の過ちを過ちとも思わなくなり、記憶を美化して、そういうラインメールを受け取った時は、ぞぞっと!鳥肌が立ちました。

 

その内容の返信を悩んで考えていた時、時間が経ったので母がもう一度私にラインをよこしました。

 

「私が(母)産まれてこなければ良かった」

 

それって、母が産まれてないから、私も産まれてないってことですよね?

記憶を美化して前向きに生きて欲しいと思っていながら、「私が(母)産まれてこなければ良かった」なんて送られてきて、再び鳥肌が立ちました。

 

なので、前向きに生きようとしているのに、そういうこと言わないでくださいと伝えたけど、歪んだ性格と受け止められてしまったようです。

 

一番のゾゾっとピークはその後のラインメール

「当時はまだ若かったけど、今は少し大人になったから、きっと今子供がいたら、ひな鳥のようにずっと抱えて離さない」

 

えええええ!歳と共に母の脳内は悪化してきている。

なぜ自分の母親がそんなことになってしまったのか、、、しばらく心が痛み続けました。

 

義理の父は、そんな母を昔から理解して私に性的虐待を続けたてきてたのだと思う。

 

まだ私が結婚する前、自分の家庭もなかったので、母に対して私は一番の味方でいることを思っていたけど、自分の家庭を持ち我慢することができなくなり、違うことは違うと伝えると、それは歪んだことで、結婚して居場所ができる前になんでそういうことを言ってくれなかったのかと思っているようです。

母自身が痛みの中で暮らしているので、私の心の痛みを感じられない発言は続きました。

 

余談ですが、母と義理父が写った写真、私がシャッターを切ったやつを見ると、夫婦同じような支配者的な笑みを浮かべて写っていました。

知人にその写真を見せたところの第一声「二人とも意地悪そう」

 

ちなみに、私と母のこの数年間の関係事実を知っている義理の妹は、何が正解か不正解かとかではく、義理父の会社で勤めていて、母と近くで生活する上で、母の気持ちを最優先しているのですが、それでも義理の妹の心奥深くでは、また別の気持ちがあると思います。

こんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが、いつか母が亡くなったときには、「母の為に尽くしてきた代償で結婚もできずに子供も作れなかった!子供なら責任とって!」

とか言われそうです。

 

私が思うのはただ一つ。

親と子の関係のジレンマもこの世の試練だと思うけれど、早く楽になりたいな!

って思う。

なので、もし自分が近々癌などの病気になっても治療はしたくないし、かと言って本当に死を望んでいるわけではないけど、くる時がきたら楽になりたいって思っています。

 

子に先立たれる親の気持ち、凄く辛いらしいけど、

それは母も同じ気持ちだと思うけど、

それしか終わらせることが出来ない試練だと思っています。

 

縁を切ろうが切らまいが、母に先立たれようが、この気持ちは変わらないと思う。

 

子供が出来たら母の気持ちが分かるとラインで言われたとき、そんな苦痛を分からせたいのか?と歪んだ気持ちを思えてしまうほど、母が私に言う立場じゃないことを母の気持ちとして訴えてきたりするから、これは母自身が産まれてからずっと受けてきた環境の心的外傷後ストレス障害からの併発したアスペルガーじゃないかなと私は思っています。

母と一緒に住んでいる義理父や近くに住んでいる義理の妹は、本心では母のことなんてどうでもいいと思っているので、精神科に連れて行こうなんて思っていないのだと思います。

とりあえず母の意見を受け入れて今を過ごす。でも将来覚えてろよ!

って感じだと思います。

 

なので、今私が母に少しでも期待することがあるならば、ボケる前や死ぬ前までにはきちんと義理の父と妹をは縁を切ってから老人ホームに行くなりなんなりして下さいと思っています。

 

死んでから迷惑かけないで欲しい。

 

だから、自分が先に死ぬことにもありだと思ってしまう。

 これは母にしてみたら歪んだ性格なのでしょう。

 

母のことを精神的な病気と私は勝手に思っているけど、病気なら病気の人に対して憎むのは可哀想だし、能天気な脳内になりたい。(能天気なとこも多々ありますが)

 

母と少し距離を置いて、ラインでは私に対する思いやりの対応を続けてきた母が、実は悪化していた、やっぱり悪化していると勘で思ってた恐怖がその通りになってたというブログでした。

 

母には何が必要か、何をして欲しいのか、何が一番良いことなのか、

近くにいる家族が精神病院に連れて行かないなら、私が病院へ連れて行くことが一番必要とされていることなのか?

 

母が苦しい中で思うことは、本音じゃなくてもやらなくてはいけいと思っていることは、居場所のために家事をする。

そういうことらしい。

 

誤った道に手を差し伸べてあげたいけど、それは母には誤った道ではなくて、母の生きる道で、70才間近の母に突然その生活を変えさせるべきなのか、どのように手を差し伸べたらいいのか、少し思ってしまうところもある。

私自身も母に手を差し出すことに恐怖がある。

心の穴を求めれば求めるほど傷が深くなる関係に手をつっこみたくないね。

 過去があっての今がある。

今があっての過去がある。

 

実はとっても簡単なことなのかもしれないが、出来た心の傷の問題は簡単じゃない。

 

 

 

今日はこれから、自称デスノートと呼んでいる黒いノートに、理想の家族の風景を描きながら少し休みたいと思います。

何故かデスノートにその時々の空想な世界を描き上げると、睡魔が来て不眠対策になるという効果があります。 

 

 

毒親から見た子供は自身の鏡

私は今、塩大福を食べながらこの記事を書こうとしている。

 

母は私に罵倒する時は凄い人相で罵倒してくる。

罵倒している内容は私に対して言ってるようで、大体は母自身の辛さを私にぶつけている。

自分もそうだからあんだもそうだと思い込んでいるんだろうか。

身に覚えのないのことも罵倒される。

今になればわかる。

母自身が私に罵倒している内容は母自身を私に映して叫んでいたのだろう。

叫ぶだけでは足りずに暴力に至るのである。

そこまで母は自分自身が憎くて仕方ないのかな。

でも自身に自傷行為をするのではなく、私に対して行うのである。

ある意味それは自傷行為なのかもしれない。

 

私は貴方の鏡ではない。

貴方は貴方

私は私

 

 

 

どんな時でも腹が減る。

先ほどダークな内容のブログを書いたのに、お腹はとても減る。

旦那が今から帰ってくるので、弁当屋さんでカツ丼を買ってくるように頼みました。

 

一日のほとんとの時間、外に出てても家にいても恐怖の苦痛の中にいるので、苦痛時間とレベルが多い日はそこで一日の精神を使い果たすので家事などを出来る余韻がありません。

むしろその余韻が残ってる日は本当にまれで、その日はハッピーな日。

宝くじ感覚にとてもハッピーな日。

生きてることに感謝できる日。

 

むしろ恐怖の苦痛を余韻側の方にして、それ以外のことで埋め尽くしたい。

普通の人が普通に生活出来てるように生きたい。

 

母の手のひらの中で過ごした人は、ほぼみんな人生が低レベルな人ばかり。

母自身は母の中では一生懸命生きてきたのに、なんだかいろいろと報われないよな。

母は自身の弱さを悪魔に変えてしまいすぎたのだろうか。

 

『私』か『母』どちらかが死なないと終わらないのは確実だ。

こんばんは。

少しだけ久しぶりの記事になりますね。

 

記事は久しぶりですが、毎日毎時間毎分ごとに地獄の世界へ陥ってる日々は変わりません。

いつ終わるのかな?なんて、生命を終わらせてしまわないと永遠に続くんだなと思っています。

 

子供の頃や大人になっても若い頃は体力も気力もあり、仮面でどうにかどうにかと乗り越えてきましたが、もう最近は体力も気力もどんどん地獄に耐えられないようになってきました。

耐えられなくても地獄は襲ってくるので、身体が蝕まれていく感じをひしひし押し寄せてきてます。

 

最初から仮面で我慢せずに、もっともっとやさぐれたり、警察や相談所などに行けるような強い精神だったら良かったのになと、今更後悔しても遅いですね。

 

私の仮面は母の為の優しさではなく、自分自身の弱さだったのでしょう。

 

死ななくても、母の日も父の日も誕生日も一切連絡もせずプレゼントも贈らず、携帯も新しくして連絡先を教えず、家も引っ越して住所も教えず、いつか子供が出来ても存在を教えず、赤の他人として生きられる強さが欲しいです。

そのぐらい出来ないと、一度きりの人生は終わりだと思う。

 

もう既に終わってるようで、希望はある。

けどそこには強さが必要である。

 

一般の人からにしてみたら、その強さの方向が理解出来ないわけではないだろうけど、自分の家庭はそこまでじゃなくて良かったって思うでしょうね。

 

旦那とたまによく話すことがあるんです。

もし子供が出来て、無事産まれたとして、孫を合わせに実家に帰った時に、虐待されたらどうする?

とか

赤ちゃんの時に何もされなかったとしても、性的なことでこれはいけないっていう物心がつく前にいたずらされたりしたらどうする?

とか話したことあるんです。

 

旦那は、そういうことされたら警察に届ければいいとか、ずっと目を離さなければいいとか言うのですが、ずっとずっと目を離さずってことはまず無理ですし、警察に届けるってことは、なにかされてからの前提の流れなので、最初からそういう被害をうけさせたくないと思うのは考え過ぎなのかな?

 

私が子供の時よりも両親を歳を取って老いて、若い時見たいに性的な欲は抑えられる可能性のが確率高いで性的虐待のリスクは低いのかもしれないけど、

合わせたくないのはそれだけが理由ではいし、その理由は死なないと終わらないことなので、子供が20歳になるまでは子供の存在を隠すことは出来なくとも、『逢わせない』を覚悟できる強さがないと想像するだけで恐怖で、その恐怖の中で生きる親を持つ子供なんてとても可哀想でならない。

 

安易に親戚や世間を考えとか親に孫を見せてあげたいとかの理由で子供を産むことは考えられないです。

 

Facebookでも最近出産した方がいました。

おめでとうっ!って気持ちよりも、私の環境にはない、幸せの家族の風景の写真を載せていて少し辛い気持ちも否めないですね。

まず安心して出産前後を実家で過ごしたり、赤ちゃんを祖母祖父が幸せそうな顔で抱いている写真などの幸せな一枚一枚を見ると、心と身体が蝕まれてるような感覚になります。

 

この子は普通の家庭に育って、いろいろありながらも親に感謝して、妊娠して赤ちゃんを産んで、祖母祖父のサポートを受けながら安心して赤ちゃんを触らせてあげられる、普通の人であれば当たり前の風景が私はとても難し、羨ましいとも思わない。

むしろ自分の場合を想像して恐怖しかない。

 

母は思うでしょう、「好きに旅行とかして元気じゃないの」って。

どこにいても何をしてても、貴方という恐怖はつきまとって凄く邪魔です。

死んだとしても過去は消えないけどれど、新しい恐怖はもう無くなる。

過去も消したいなら、相手の死を望むより、自分が死ねばいい。

 

みんな、死ぬ勇気なんてない。

死ねる人は強い。

『そんなのは強くなんかない』って言う人は、とても優しい人で強い人なんだと思う。

私も、そっち側の人間になりたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

母が再婚〜腹違いの妹ができる〜中学時代の私。

タイトル通り母はわたしが中学の時に再婚しました。

といっても、小学一年生の頃から一緒に住んでいた人との再婚。

母的はこの結婚は私の許可を得た上での結婚と思っている。

実際にはNO!!と言わせてもらえない脅迫感たっぷりでした。

私が二人の再婚についていい返事を出さなかったので、『いままで誰のお陰でこの家に住んで生活してると思ってるの?』とヒステリー気味に言われ答えはYes以外許されないのです。

最初私がいい返事を出さなかった理由は、母はその人の為に全てを捧げ、私に対する思いは、母自身の人生の苦難で生まれた弱さを理由に悪魔に魂を売ったような態度を私にしていること(現在は表面的には我慢して人間を装うとしてますが、基本的には心の中は未だに変わらず)

再婚相手も、そんな母の気持ちを知ってるので、それを良いことに私に性的虐待を隙あれば仕掛けてきたこと。

 

私も結局Yesと出した理由は、自分の意思とは関係なしに、それ以外答えはないのは確かですが、再婚前にほぼその再婚相手のお金でお家を建ててもらったこと。

建て売りとかでなく、図面をみて私自身もお部屋は広く欲しいと要望を出したこともありました。

親から自立する年齢になるまでは逃げれない環境の中での、確かに広いお部屋は欲しいと、上辺の願望でした。

 

からしてみたら、都合のいい考えだと思うことでしょう。

都合のいい考えじゃないことでも、母にしてみたら母自身の都合が悪い方向へは進みたくないから、お互いの駆け引きみたいなものです。

それすらも母にしてみたら、『全部あんたの為に』という思いに都合良く転換してしまうのです。

 

そう、それは人間の弱さを悪魔との取引で強くしたようなものです。

 

再婚相手は3人の子供がいました。

私は小学一年生ぐらいの頃から一緒に暮らしていたのに、中学生になるまで再婚出来なかったのは、奥さんが離婚届を書いてくれないからということでした。

それに再婚相手は実家で商売をしていて、そこに奥さんも住んでいました。

その奥さんも奥さんでいろんな意味でなかなかの強者みたいですが、私自身ちゃんとお会いしたことがなく、それは分かりません。

 

3人の子供のうち、真ん中の女の子(すーちゃん)、学年でいうと同級生の子が父の方へ来ることになりました。

奥さんは3人とも引き取りたかったらしいですが、すーちゃんはお母さんの方へは行きたくなかったみたいです。

理由は、引っ越し先方面の学校に馴染めなさそう。

いまのお友達と環境を壊したくない。

 

そういう理由みたいですが、実はこのすーちゃん、3人兄弟の中で一番お母さんっ子だったみたいです。

なのにお友達を選んだ。

父を選んだ。

 

私的は純粋にそれだけでの理由だとは信じ難いですが、そこに他の理由があろうと何度も話しあっても謎が多いので、気にしないことにしてます。

 

親の再婚した当初は、すーちゃんとは仲は悪くはないですが、同じ屋根の下で住んではないので(すーちゃんは、元々住んでた父の実家におばあさんと暮らすことになりました)

まあ、父の会社がそこにあるので一人での時間はそんなに多くなかったのかな。

 

そして私と母と再婚相手の人は、新しく建てた家に住んでいました。

小さいアパートの時よりかは、私のお部屋もあるので、二人の営みの声がマシになったのは良かった。

数年前かな、お互いの距離を置く頃に、この当時は二人は子づくりをしようと思ってたみたいだけど、『可哀想だと思い作らなかった、あんた為に』って言ってきた時は、体の芯がゾゾッ!としました。

そんなときでも私は母の機嫌を取りながら会話を頑張っていたよ。

 

そんな家庭環境の中の中学校の生活といえば、イジメのターゲット。

私を苛めることで日々ストレスの発散をしていたグループと、それを静かにみえていたそのグループ以外のほぼ全員。

クラスメイトの中には小さい頃からの幼なじみもいたけど、その子は人気ものであんまり関わることも無かったね。

もともと小学生の時に、小さなアパートに遊びにきたその子に、私自身の苦痛を分かってもらおうとして、『こんなこと母とおじさんはいつもやってるんだよ』って教えようとしたら、それ以来お互いに心の距離が出来た感じ。

 

中学で同じクラスになっても、私が苛められてても、苛めるこもしないし、助けることもしない。

話すことがあっても無視とかもせずに、当たり障りない感じだったね。

 

中学2年生になったときはいじめのターゲットも変わり、イジメでストレス発散していたグループ内で仲間割れ。

今度はその子がイジメの対象に。

 

丁度同じ頃に、成績を上げたいと学校の横にある塾へ通っていたのですが、なかなか難しくて、個別指導の塾を母が選んできたので、塾をチェンジすることに。

新しい塾も、学校の正門側の前にある塾でした。

その新しい塾で、いじめグループのリーダーの人とばったり階段で遭遇。

こわっ!!!思ったけど、その子は愛想よく、学校から近いし塾の日は一緒に行こう♡というのです。

なぜ?!なぜ?!思ってたら、いじめのターゲットが変わってたんですね。

 

新イジメのターゲットになった子は、暫く学校を休んでいました。

程なくして登校するようになり、私と仲良くなりたいようだったので、私も1人は寂しかったので仲良くなりました。

でも最初のうちは信じられない恐怖心もあったけど、どんどん心を許していきました。

クラスメイトと呼べるようなお友達もできてとても嬉しかったな。

 

終わりがいいとこで、今回はここまで〜。

 

 

 

 

 

12月という辛い月&小学生時代の学校生活と学校外での私。

久しぶりのブログになります。

その久しぶりがクリスマスイブ。

毎年12月は心身共に具合が悪いです。

このまま何かの病気になり死んでしまいそうなぐらい辛い月でもあります。

12月はそういう月だよと旦那が言います。

確かに私の周り(ネットやゲームからの繋がり)でメンタルが弱くなる人も多い気がします。

顔が見えないというよりかは、ブログもそうですが、ネット関係の人達は共に苦学を過ごしてない仲間だからこそ本音で話せることもあるんですよね。

 

でも私の場合は、そんな月なのに、そんなクリスマスシーズンに産まれてきてしまった人が身近にいるんです。

そう、それは母のことです。

過去のブログで書いたように、とても貧しい生活を送ってきた母はたまにプレゼントが貰えたとしても、クリスマスと誕生日が一緒。

それがとても心の闇の一つなのでしょう。

私が毎年母の誕生日にプレゼントをあげても、ヒステリーに怒鳴られるのが定番でした。

誕生日とクリスマスプレゼントを両方あげてもすごいパワーで怒鳴ってきます。

『クリスマスと誕生日一緒にされるどころか、何もない時もあった あんたにはこの気持ちわからないでしょう?!!今更遅いわ』っと眉間に凄いシワを寄せながら怒り奮闘なのです。

 

毎年毎年同じことの繰り返し、母の悪気の無い洗脳が結婚して、ある程度の距離を3年置いたいまもも恐怖として辛い月になっています。

それでも今年も誕生日プレゼントを贈りました。

一応、母の日、父の日、腹違いの妹すーちゃんも含め誕生日にはプレゼントを贈っていますが、実は、探す行為=その人のことを考える行為自体、生きた心地がしないです。

 

今年の誕生日の母からの返信は、『来年から老後年金生活になるから細々と暮らしていきます。お誕生日も虚しいばかり』というフレーズ。

流石に、距離を置いてるのはお互いに分かってるので、怒ったり怒鳴ったりとかはないけど、気持ちだけで大丈夫という母の言葉の裏に、「あんたには分からないでしょう」っていうことを伝えたいのだと、今までの経験で感じます。

暗黙の洗脳に勝ってる母親です。

 

でも母自体悪気がなくそんな事を私に言ってるのなら、間違いなく母はアダルドチルドレンとかアスペルガーとかの症状に近いなって感じるのです。

(母はカウンセリングには通っていますが、心療内科には通ってません)

ちなみに、カウンセリングに行ってるというのを知ってるのに、あえてヒステリーに「あんたには黙ってたけど、長年の苦労が溜まりカウンセリングに通ってるの知ってるの?!」と、いつも通り全力で私に怒鳴りながら伝えてきます。

今更なんで?!30も過ぎた人にそんな言い方するのか?裏の心理で「再婚相手の父と父の連れ後のとあんたのせいで通ってる」っていうのを伝えたいのか。

 

母自体、とっても可哀想な人間ですが、可哀想や弱さを理由に心身的虐待は生きてる限り続くのかと思うと毎日毎日不安でたまらないね。

 

そんな12月は、街のイルミネーションやツリーが綺麗なら綺麗な程、心が泣いているのです。

いろいろ1年を思い出しながら素敵だなーと黄昏れる日はいつか来るのでしょうか。

 

 

そんな私の小学生時代の話。

凄く大人しかったよね。

お勉強もできなかったし。

体を動かすことや音楽は好きだったけど、勉強に便乗して成績は悪かった。

小学低学年のときは、ただ大人しく、孤独に一人でいることが多かった。

運動会やマラソン大会は頑張りましたよ。

小学校の運動会の6年間中、半分以上も運動会に来なかった母。

たまに来たときは、母の幼なじみも一緒に盛大にお昼ごのお弁当を食べました。

来ないときのお昼は、水道水でお腹を満たして、美味しそうな各家庭のお弁当の香りを頼りにお腹を満たそうとしてました。

お昼が終わり午後の部、お腹は空腹ですが、周りの子に『お腹いっぱいで動けない』ってウソをついたこともありました。

 

小学校中学年〜高学年はいじめもあったので、母にその姿を見られたくないのと、過去の記事の保育園の時の出来事で書いた事も、恐怖として植え付けつけられいて、お弁当を必要とする日は、母自身が子供の頃作って貰えなかった話を毎回聞かされるのも定番で、ただただ聞かすのではなく、凄い人相で苦痛を訴えてくる母の様子がとても怖かったので、こんなにも理由があるなら言わなくてもいいか?って自分から言わなくなっていました。

運動会当日、母が偶然近所の同級生の母と遭遇した時に運動会のことを知ってしまい、来てくれた時、先ほどの話で出た、母は母の幼なじみと来てくれたんです。

 

学校ではいじめ、小学高学年になると、担任の先生からも酷い嫌われようで、学校にも家にも心休める場所がありませんでした。

 

唯一の自分をむき出しに出来る場所が、下校の道と近所の子達と遊ぶことでした。

自分のむき出しというのは、本当の自分といえばそうなのでしょう。

与えられた環境のストレス発散的な役割をしてたので、ドラえもんでいうジャイアンみたいな感じの態度を良くとってました。

低学年や中学年の頃は、通りすがりの同じ歳ぐらいの小学生をみては、自分より幸せな家庭環境に違いないと思い、田んぼなどに突き落としたりしてました。

相手の子が泥まみれになる姿をみて、本当はこうしたいわけではないけど、こうでもしないとやっていけないと、その時だけは闇の力が抑えられませんでした。

 

自分よりも小さい子にもやったし、歳上の人にも、同じ子供なら対象となりやっていました。

そういうことは集団でやってはわけではなく、一人でやっていました。

 

何度かバレて学校に行ったら呼び出されて、その子のクラスまで先生と謝りに行ったこともありました。

その謝りは本当の反省ではなく、自分自身が辛くてたまらない気持ちで一杯でした。

 

別の子のでバレた時は、相手は同じ歳の男のでした。

優しそうな少年で私の横をすすすっと素通りしたので、ターゲットになりました。

「なんで抜かすんだよっ!!!」と言って田んぼに思いっきり突き落としました。

その子のランドセルと黄色い帽子(一年生だったんだと書きながら思い出しました)が泥でぐじゃぐじゃになり、その男の子は大泣きをしていました。

そんな姿をみて私の気持ちは(やり過ぎた)思いながらも「あんたがいけないんだからね!」(いや、なにもいけなくないだろう!)と捨て台詞をいい帰宅しました。

間もなくして、自宅に電話がかかってきて、その子の家に母と謝罪に行きました。

その子は出てこなかったけど、その子のお母さんに謝罪をしたのだけれど、とっても優しいお母様で、「男なのに女の子にやられるなんて恥ずかしいよね」と私の味方をしてくれました。

あー素敵なお母様、わたしもこのお家の子になりたいと心の中で思ったなー。(懐かしい遠い目)

そのお家は転勤族だったのかな?引っ越してきたと思ったら、数年後また引っ越ししてて、今は元気でやってるのでしょうか?

私が言うのもなんですが、よなよなして白い肌の少年は素敵な男性になっているのかもしれませんね。

 

2つ歳上のお姉さんにも、道で抜かされただけで「どんっ!」って押したりして意地悪していましたが、ある日「やめてよっ!」って言われて、それ以来そのお姉さんにはやらなくなりました。

 

もう一人、たまに思い出してはごめんなさい!!と思ってしまう出来事。

また2つか3つ上のお兄さんなのですが、細い小道でその少年が私の横を通り過ぎようとして、というか、思い出しました、わざと抜かされるようにスピード落としてた記憶が沸々と。。。

そして抜かされた瞬間、ランドセルを抑えて倒したんですよ。

そしたら足を骨折してしまってね、そうとは知らずに、「抜かしたあんたがわるい」いうて消え去る私。

その少年は「なんだよ!いてえなああいてえよおおお」言ってたのだけど、素知らぬそぶりをみせて去っていく私でした。

(その少年の家から10秒ぐらいの場所)←近いから良いだろうとか今は全然思ってないですよ。

 

このことは身ばれはせずに、家に電話とかかかってくることは無かったのですが、

後日、登校する時、その狭い路地でその少年とすれ違うことがあり、足大丈夫か聞いたことがありました。

「いてえよおおいたいに決まってるじゃん」と言われた言葉は忘れないよ。

ごめん思いつつも、子供だったので何もすることできず時は流れ〜

私が短大生になって一人暮らしを始めていたのですが、地元の祭事に参加の約束をお友達としていたので、その時実家へ帰りました。

祭事用に髪の毛を美容室でセットしてもらいに行ったのですが、その美容室の場所が、あの時の路地の一角。

そう、あの時の少年の自宅です。

髪の毛を綺麗にセットして頂いてる時に、美容師の方が言い出しました。

「うちの息子、昔誰かに押されて骨折したのよね。誰だか分からずに連絡取れなかったけど、たまに思い出すのよ。

もう昔のことだからなんだけどね。

今は美容師になる為に勉強中なのよねー」

と言われて、あー、この方はあの時のお母様で、きっと私がやったって分かって言ってるのかもしれないって思って動揺はしたけど、名乗れずに終わりました。

それか、母親の勘か。

同じ年頃の女性みんなに言っているのか。。。

 

真実は分からないですが、たまに後遺症が後々出てきてたら申し訳ないなーって思い出します。

 

その少年も今は40歳ぐらいになってるんですよね。

元気で過ごしていてくれてるといいな。

 

今日はここまで。

偶然たどり着いた皆様、(いるのかな?!)読んでくれてありがとうございました。