私と母の生い立ち (誕生〜幼児期)私の不思議な世界と当時から感じてた母の闇
このブログを書く前に、キムチチャーハンを作りました。
旦那が仕事なので、今夜は自分一人分だけ。
チャーハンを作りながらいろいろ思い出して泣きながらチャーハンを作りました。
もちろんチャーハンの味は、、、涙の分しょっぱいかな思ったけど、まあまあ普通でした。
昭和の50年代に喫茶店の店長をしていた父とそこでパートをしていた母の間の子供が私です。
小学生入る頃には二人は離婚してますが、私の喫茶店好きや、得意ではないコーヒーを好んで飲むのは、二人の出逢った由来から引き継いだのでしょうか。
父はのちに喫茶店を辞めて開業を始めます。
私が産まれて子がいながらの開業資金の借金を負うことになりました。
のちに借金が返せない感じになり、母が実家にも援助をしてもらい借金をどうにか返しました。
ちなみに母は腹違いのお姉さんを含めて6人兄弟です。
実情、母が長女的な感じで育っていきました。
母から聞いた話ですが、子供の頃はクラスで、、学年で、、一番の貧乏で長女として弟や妹達の為にいろいろと我慢や助けをしてきたみたいです。
当時給食もなく、白米に梅干しだけの日の丸弁当を持って行ったとしても、弟がお弁当を忘れたときは、弟が可哀想で母が自分の日の丸弁当をあげていたそうです。
私の故おじいちゃんは全然働かなく、おばあちゃんが一人で働きに行ってたみたいですが、それでは5人育てられない感じだったみたいです。
話は戻り、そんな環境の実家から夫の借金の為にお金を借りる気持ちはとても言葉にはならないぐらい絶望的だったと思います。
そんな当時、私がまだ赤ちゃんの頃から保育園にいく前の年代頃まで日々不思議な夢を見ていました。
6歳以前の母や父と遊んだ記憶があまりない中、不思議な夢や、ましてや、産まれた瞬間も覚えています。
出産の時、おっ?!なんだ?!と、お腹の中で苦しくてとても息が苦しかった記憶があります。
出てきた瞬間、ぷはああああっ!と思いました。
そして不思議な夢は、当時土壁のお家に住んでいて、ベッド側の壁に穴が空いており、その中へ入ると異次元の空間があるのです。
その異次元の空間は、マネキンみたいなものが沢山並んでいました。
その異次元の空間には、入り口穴とは別のもう1つ別の穴がありました。
そこから出ると、ベッドの枕側が入り口側の穴だとすると、足側の方の穴に出る感じでした。
その穴から出た場所は一見穴に入る前の世界と時と同じように見えますが、実は少し違う世界なのです。
もちろん夢だし、実際リアルの世界で壁に穴なんて空いてませんよ。
何度も何度も頭側の穴から入り足側の穴に出る。
今回私は現世で生きる場所を選択できるかのように、どの世界で生きようか悩みながらグルグルしてました。
すごく疲れました。
すごく残酷な世界も途中ありました。
そしてどうにか決めた世界。
決めた瞬間はとても静寂で、これが正解は不正解かわかりませんでした。
そして目が覚めました。保育園はいる前ぐらいの歳の時です。
私が夢を見ている間、母と父は借金問題で破滅に向かいながらも、母は私を食べさせる為に夜のお仕事をしていました。
接客というよりは調理師免許を持っていた母は、調理場で調理をしていたみたいです。
お昼はお昼で別の仕事をしていたみたいです。
私の不思議な夢以降の幼児期の記憶は出稼ぎに行っていた母よりも家で自営していた父と一緒にいた記憶のが多く残っています。
不思議な夢から目が覚めた最初の記憶は、父だけじゃなく母もいました。
板の間で母が煙草を吸っていて、それを見た私も煙草を欲しがっていたのを覚えています。
余りに私がしつこいので一吸いさせてもらい、ゲホゲホむせた記憶があります。
次の記憶も母と父がいました。
板の間のTVで田原俊彦さんがにんじん〜にんじん〜みたいな曲を歌っていて、その曲を凄く気に入った私は曲に合わせて踊っていたのを思い出しますね。保育園通う前の記憶で一番楽しかったのはこの記憶です。
母と父はその時なんかお話中でした。
それから私も保育園に通う年齢になりましたが、保育園が大嫌いで大嫌いで毎日苦痛だった記憶があります。
嫌だった理由はまずお友達が出来ない。
そしてみんなよりもなにもが劣っている。
お昼寝の時間が1年ぐらいにも感じた。
牛乳嫌い。
おやつ大好きだけど、牛乳飲み終えないとおやつに手を出してはいけない。
おやつがブルボンのファミリーパックの時には早い順なので、好きなものが残っていません。
ちなみに、当時から未だにルマンドが大好物です。
もちろん、牛乳を飲み終えない私には大人気のルマンドは残ってるはずもなく、好みではない種類のを2本食べました。
何故か涙がでてきてしくしく泣いていたら、優しい子が私にお菓子を差し出してくれました。
とっても嬉しいと思いたいですが、きっとその子のそんなに好みではないお菓子だったと思うのですが、私も好みではないお菓子だったので、優しい気持ちを受け取りつつ複雑になり、涙がいつの間にか止まっていました。
のちにわたしはこれを『ルマンド事件』と名付ける。
未だに知人にルマンド事件の話をすると、みんな爆笑してくれるのですが、中にはそれ以来私にルマンドをプレゼントしてくる方もいましたw
ええと、話はずれましたが、当時母は仕事で忙しく、夜は寝るまで父といる時が多かったです。
保育園は基本給食が出ましたが、白米だけは各自持参でした。
時には給食が出ない日もありました。
なので給食が出ないと言われていたので、母に明日はお弁当作ってーと頼んだことがあります。
でも怒られてしまいました。
母は『私は子供の時からお弁当なんて作ってもらえななかったし、なんの為に日々働いてると思ってるの?分かったなら静かにして!』とヒステリーに発狂しました。
初めて母が私に声を荒げた日でした。
次の日はお弁当はなく、日の丸弁当だけでした。
それ以来お弁当の時は母に言えず自分だけ日の丸弁当の時が多々ありました。
そんな中、保育園も卒園して、小学校入学までの間、母の実家で過ごしました。
私が母の実家にいる間、離婚と引っ越し準備でいろいろ大変だったみたいです。
離婚理由は父の借金。
先ほど借金の話も書きましたが、それ以降にまたお金を返せなくなり、取り立てやに追われて父は私と母を残して逃げてしまうらしいです。
そういうのがこれで2回目らしいです。
乳飲み子抱えて取り立てやに返せ!言われるなんて、母の人生も残酷なものですね。
そして小学校入学前は母が迎えにきて引っ越し先で住むことになりました。
当時、離婚の意味を知らずに、何日経っても父が帰ってこないので寂しくなり、パパはどこ?パパはどこ?と泣いていたのを思い出します。
小学時代〜の話は次のブログにて書きたいと思います。