毒親への葛藤を綴るブログ(精神的、性的、肉体的虐待)

親から性的虐待○心身的虐待を受けてきた女性のブログ

小学生に入ってからの生き様○性的、心身的虐待の日々。

こんにちは、こんばんは。

今日の晩ご飯はインド料理を食べに行くので楽しみです。

そして今日の記事は小学生に入った頃からの生き様を記載したいと思います。

 

小学の入学前に母と父が離婚をして、私は母に引き取られ母と引っ越しました。

引っ越し中私は祖母の家にいたので、家に戻ってきた時は違う家で訳が分からない状態でした。

お父さんがなかなか帰ってこないし。(当時はまだ離婚したことを知らなかった)

 

二人暮らしもつかの間、すぐに知らぬおじさんが家に住み着くようになりました。

この人が今の父である人。

 

最初の頃はそのおじさんは、夜中までには帰宅していたと思います。

のちにおじさんが仕事の時間まで帰らなくなりました。

 

当時、小さなアパートに住んでいて二人の会話はよく聞こえました。

二人が板の間でお話している横のお部屋で私はうつらうつらと寝そうになっていました。

その時の二人の会話は未だに忘れもしません。

母『いつ殺す 私は今すぐにでも殺していいけど』

おじさん『いまはまだちょっとまって』

 

私のことを話してるように思い、とにかく動いたら殺されると思い小さく震えながら出来るだけ起きてるのを気づかれないようにじっとしてました。

ちょうど、この頃から母に身体的虐待を受けるとうになっていたので、自分のことだろうと思ったのです。

よく母からは、離婚した夫と私の顔が似ていて、私の見てるだけで殺したくなる的なことを発狂しながら言い、暴力を震われ良く血だらけになっていました。

私は泣きながらごめんなさいごめんなさいと何度も謝りながら怯えていても、母はその顔むかつくとか、血を拭こうとティッシュを手に取ろうとしても足で背中を踏んづけて阻止していました。

 

おじさんが家に帰宅すると母はおじさんの為に毎晩毎晩料理に腕をふるいました。

調理師免許をもっている母の特技の一つが料理です。

おじさんが来ないときもたまにはあったので、その時は簡易に済まされていました。

『たまには私の為にも作って』と言うときもありますが、母は私の為を思って日々作ってると言い返します。

あんまりしつこく言うと、『あんたの為に!』とか『あんたのせいでどんだけ犠牲にしてると思ってる』とヒステリーになり暴力が怒るのであんまり言えませんでしたけど。

 

何よりも苦痛な時間は就寝時間です。

2DK小さなアパートなので、母とおじさんが二人で寝ているベッドの下で私は日々寝ていました。

毎晩毎晩二人の大きな声の営みで目が覚めてしまい、目が覚めるとトイレにも行きたくなるし、でも行けないし、、、。

自分なりに考えた結果のトイレ対策として、寝るときは布団の中にビニール袋を隠しておくことでした。

トイレに行きたくなったら布団の中で隠れてビニール袋の中でおしっこをしていました。

 

こんな就寝が2年ぐらい続いたのでしょう。

私も小学生3、4年生ぐらいになったころは、母達は横の部屋で移動して寝ることになりました。

そのぐらいの年齢の時に、母が入浴中や目から目の届かないすきにおじさんは寝ている私に手を出してくるようになりました。

『ママはここ気持ちいいって言ってるよ』『だんだんと気持ちよくなってくるよ』

とか言いながら胸や穴を指でいじられてました。

 

何度もそういうことがあり母に伝えても真に受けてもらえず、それを聞いていたおじさんもそんなことしてないっ!と怒鳴る感じで言い始めます。

母的にはそれは私の反抗期で、こたつの中で足がぶつかって触るな!的なぐらいかと思っていたようです。

 

そのうち私もガードの技を覚えて自ら危ない時は近づかないように気をつけていました。

それでも私が寝てしまった時とか、気づいたら触れてた時もあります。

 

そもそもそのおじさんと母の出逢いのきっかけなんて、聞く度に違うのでどれも当てにはできません。

ただ、そのおじさんは奥さんがいて子供が3人いました。

のちに家に寝泊まりするようになり帰ってこない日が多くなったので、奥さんからたまに電話かかってきたり、話し合いで家に来たことがありました。

おじさん的には、奥さんと離婚して、うちの母と一緒になることを心に決めていたのでしょう。

 

私が6年生になる頃から、小さいアパートに住んでいたものに比べたら豪邸と思って言いぐらいの家に引っ越すことになりました。

建て売り住宅ではなく、自分たちでデザインを考えて作った家なので、母の理想の家になったのでしょうか?

ただ当時もまだ、おじさんは奥さんと離婚はしていませんでした。

奥さんが離婚をしてくれないとのことらしいです。

なんだかんだと、私が中学一年生になるころにはおじさんは離婚を成立してのちに家の母と結婚をします。

 

おじさんの子供の3人のうち1人をおじさんが引き取る形で、戸籍的に私に兄弟が出来たことになりました。

女性なので姉妹になりますね。

しかも私と同じ学年の女の子です。

 

その子名前を今後ここで表す表記としてすーちゃん(この子が好きなアーティストの名前からの由来)

そして新しい父を表す表記を『しんジー』(新しいじじーの略)

 

とここでは書きたいと思います。

 

次回のブログは、すーちゃんについてと、私の小学生時代の学校生活での過ごした証を書きたいと思います。

 

 

 

 

 

私と母の生い立ち (誕生〜幼児期)私の不思議な世界と当時から感じてた母の闇

このブログを書く前に、キムチチャーハンを作りました。

旦那が仕事なので、今夜は自分一人分だけ。

チャーハンを作りながらいろいろ思い出して泣きながらチャーハンを作りました。

もちろんチャーハンの味は、、、涙の分しょっぱいかな思ったけど、まあまあ普通でした。

 

昭和の50年代に喫茶店の店長をしていた父とそこでパートをしていた母の間の子供が私です。

小学生入る頃には二人は離婚してますが、私の喫茶店好きや、得意ではないコーヒーを好んで飲むのは、二人の出逢った由来から引き継いだのでしょうか。

 

父はのちに喫茶店を辞めて開業を始めます。

私が産まれて子がいながらの開業資金の借金を負うことになりました。

のちに借金が返せない感じになり、母が実家にも援助をしてもらい借金をどうにか返しました。

 

ちなみに母は腹違いのお姉さんを含めて6人兄弟です。

実情、母が長女的な感じで育っていきました。

母から聞いた話ですが、子供の頃はクラスで、、学年で、、一番の貧乏で長女として弟や妹達の為にいろいろと我慢や助けをしてきたみたいです。

当時給食もなく、白米に梅干しだけの日の丸弁当を持って行ったとしても、弟がお弁当を忘れたときは、弟が可哀想で母が自分の日の丸弁当をあげていたそうです。

 

私の故おじいちゃんは全然働かなく、おばあちゃんが一人で働きに行ってたみたいですが、それでは5人育てられない感じだったみたいです。

 

話は戻り、そんな環境の実家から夫の借金の為にお金を借りる気持ちはとても言葉にはならないぐらい絶望的だったと思います。

 

そんな当時、私がまだ赤ちゃんの頃から保育園にいく前の年代頃まで日々不思議な夢を見ていました。

6歳以前の母や父と遊んだ記憶があまりない中、不思議な夢や、ましてや、産まれた瞬間も覚えています。

出産の時、おっ?!なんだ?!と、お腹の中で苦しくてとても息が苦しかった記憶があります。

出てきた瞬間、ぷはああああっ!と思いました。

 

そして不思議な夢は、当時土壁のお家に住んでいて、ベッド側の壁に穴が空いており、その中へ入ると異次元の空間があるのです。

その異次元の空間は、マネキンみたいなものが沢山並んでいました。

その異次元の空間には、入り口穴とは別のもう1つ別の穴がありました。

そこから出ると、ベッドの枕側が入り口側の穴だとすると、足側の方の穴に出る感じでした。

 

その穴から出た場所は一見穴に入る前の世界と時と同じように見えますが、実は少し違う世界なのです。

 

もちろん夢だし、実際リアルの世界で壁に穴なんて空いてませんよ。

 

何度も何度も頭側の穴から入り足側の穴に出る。

今回私は現世で生きる場所を選択できるかのように、どの世界で生きようか悩みながらグルグルしてました。

すごく疲れました。

すごく残酷な世界も途中ありました。

そしてどうにか決めた世界。

決めた瞬間はとても静寂で、これが正解は不正解かわかりませんでした。

そして目が覚めました。保育園はいる前ぐらいの歳の時です。

 

私が夢を見ている間、母と父は借金問題で破滅に向かいながらも、母は私を食べさせる為に夜のお仕事をしていました。

接客というよりは調理師免許を持っていた母は、調理場で調理をしていたみたいです。

お昼はお昼で別の仕事をしていたみたいです。

 

私の不思議な夢以降の幼児期の記憶は出稼ぎに行っていた母よりも家で自営していた父と一緒にいた記憶のが多く残っています。

 

不思議な夢から目が覚めた最初の記憶は、父だけじゃなく母もいました。

板の間で母が煙草を吸っていて、それを見た私も煙草を欲しがっていたのを覚えています。

余りに私がしつこいので一吸いさせてもらい、ゲホゲホむせた記憶があります。

 

次の記憶も母と父がいました。

板の間のTVで田原俊彦さんがにんじん〜にんじん〜みたいな曲を歌っていて、その曲を凄く気に入った私は曲に合わせて踊っていたのを思い出しますね。保育園通う前の記憶で一番楽しかったのはこの記憶です。

母と父はその時なんかお話中でした。

 

それから私も保育園に通う年齢になりましたが、保育園が大嫌いで大嫌いで毎日苦痛だった記憶があります。

嫌だった理由はまずお友達が出来ない。

そしてみんなよりもなにもが劣っている。

お昼寝の時間が1年ぐらいにも感じた。

牛乳嫌い。

おやつ大好きだけど、牛乳飲み終えないとおやつに手を出してはいけない。

おやつがブルボンのファミリーパックの時には早い順なので、好きなものが残っていません。

ちなみに、当時から未だにルマンドが大好物です。

もちろん、牛乳を飲み終えない私には大人気のルマンドは残ってるはずもなく、好みではない種類のを2本食べました。

何故か涙がでてきてしくしく泣いていたら、優しい子が私にお菓子を差し出してくれました。

とっても嬉しいと思いたいですが、きっとその子のそんなに好みではないお菓子だったと思うのですが、私も好みではないお菓子だったので、優しい気持ちを受け取りつつ複雑になり、涙がいつの間にか止まっていました。

 

のちにわたしはこれを『ルマンド事件』と名付ける。

未だに知人にルマンド事件の話をすると、みんな爆笑してくれるのですが、中にはそれ以来私にルマンドをプレゼントしてくる方もいましたw

 

ええと、話はずれましたが、当時母は仕事で忙しく、夜は寝るまで父といる時が多かったです。

 

保育園は基本給食が出ましたが、白米だけは各自持参でした。

時には給食が出ない日もありました。

なので給食が出ないと言われていたので、母に明日はお弁当作ってーと頼んだことがあります。

でも怒られてしまいました。

母は『私は子供の時からお弁当なんて作ってもらえななかったし、なんの為に日々働いてると思ってるの?分かったなら静かにして!』とヒステリーに発狂しました。

初めて母が私に声を荒げた日でした。

 

次の日はお弁当はなく、日の丸弁当だけでした。

それ以来お弁当の時は母に言えず自分だけ日の丸弁当の時が多々ありました。

 

そんな中、保育園も卒園して、小学校入学までの間、母の実家で過ごしました。

私が母の実家にいる間、離婚と引っ越し準備でいろいろ大変だったみたいです。

 

離婚理由は父の借金。

先ほど借金の話も書きましたが、それ以降にまたお金を返せなくなり、取り立てやに追われて父は私と母を残して逃げてしまうらしいです。

そういうのがこれで2回目らしいです。

 

乳飲み子抱えて取り立てやに返せ!言われるなんて、母の人生も残酷なものですね。

 

そして小学校入学前は母が迎えにきて引っ越し先で住むことになりました。

当時、離婚の意味を知らずに、何日経っても父が帰ってこないので寂しくなり、パパはどこ?パパはどこ?と泣いていたのを思い出します。

 

小学時代〜の話は次のブログにて書きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己紹介

現在40歳手前のアラフォーです。

旦那と二人暮らしをしています。

 

両親は近郊の県に住んでいます。

母は私が小学校入る前に離婚。

小学生から中学生に入るまでのちの父となる男性と母と暮らす。

中学生になったころに、その男性が元奥さんと離婚をして私の母と結婚。

男性側は子供3人いらっしゃいますが、私と同じ学年の女の子を引き取って戸籍上は4人家族でした。

私は結婚をしてその戸籍から抜けた時の開放感は嬉しかったです。

 

 

 

 

ブログのテーマの通り、性的虐待や心身的虐待をうけて育ちました。

過去のトラウマは忘れましょう、自分の道を行きましょうと思えるような環境になれるように、いつかなれば良いなと思っています。

 

いつかなれば、、、そう、現在進行形でまだ虐待まではいきませんが、親が生きている間はまだまだ続いています。

過去のことではなく、今戦ってるのです。

 

40歳手前で子供はいません。

欲しい気持ちと、子供を作ることに責任を取れないという気持ちの恐怖で作れずにいます。

一番の恐怖は、親が私に嫌気をさしたとき、私に矢をむくのでは足りなく、孫に矢を向けられることへの恐怖を感じるからです。

そりゃ、孫への気持ちは可愛がるだけなので、かわいいかわいいだけかもしれませんが、わたしの両親は少し違う人格なで、もちろん可愛がることもあるとは思いますが、私に嫌気をさしたとき、孫に暴力を震ったり、それをみている父は、大事にされてないからいいだろうと性的虐待を孫にやってしまう可能性も否めません。

 

どんなに私自身が子供を守りたくても、目を離したすきにやられてもこれはだれの責任でもなく私の責任です。

 

子供を作る前からこんな風に心配しています。

 

次回の記事は、母が前の夫と離婚する前の話から書こうと思います。